ペルージャの路地
哀愁のペルージャ
幻の青
誰かの寝室をのぞくような・・・パリで一緒に
パリでいっしょに
そのまんまのタイトルの本書は
アメリカの有名なゲイ作家が、恋人(同性)との
パリ暮らしを綴ったエッセイですが、
この場合は、相手がフランス人だから、まあ自然な選択か。
私は正直、同性愛者とか理解しているわけではなく
(否定は断じてしませんが)
筆者は本書の中で、自分が同性愛者とはっきり書いていますが、
恋人(くどいようですが同性です)の名前がユペール…これが、
女性の名前なのか男性の名前なのか、イマイチよく分からない。
もしかしてフランスではよくある一般的な男性の名前なのかも
しれませんが、そのせいで私にはゲイカップルとか関係なく、
普通のカップルの生活に読めるのです。
本書は、ホワイト氏が、イラストレーターでもある恋人ユペールの
描いた絵に文章をつけるという形で綴られ、言わば二人の共著と
なるのですが、なぜこの本が出来たのか。
ユペールが、HIV感染していて、しかもかなり病気が進行していて、
余命いくばくもないから、何か自分の作品、ホワイト氏との
共同作業を遺したいと熱望したからと序文に書かれています。
この序文は、ユペールがモロッコで亡くなった直後に
書かれていますが、まあその中身がユペールへの愛情に
溢れていること。亡くなった直後だから当然とも言えますが、
恋人が死んだ直後によくこれだけ理路整然として、
それでいて慕情を切々と訴えかける文章が書けたなと
感嘆します。おそらく筆者が、骨の髄まで小説家だからなのでしょう。
この序文を読んでから、本文へ進むと、あまりに普通の暮らしぶりが
書かれていて驚きます。確かに、病気などなかったみたいな
普通のことしか書かなかったと、序文でも触れていますが、
誰かの家にディナーに行ったとか、パーティーで誰に逢ったとか
そんな話が続きます。
ここに出てくる、筆者とユペールを取り巻く人達も
風変わりで面白い。
2人が暮らすアパルトマンの、愛すべきコンシェルジュの
オバチャンとか。愛犬のフレッドとか。
どこかぶっ飛んでるアーティストとか。女たらしの八百屋に
怒りっぽい肉屋、筆者に対して頑固に英語を使おうとする魚屋とか。
それでも、全体を通して伝わってくるのは、やはり
恋人ユペールへの深い愛情。誰かの寝室を覗いているような親密さ。
この本の中で、ユペールは病いにやつれ、衰えていく事もなく、
ハンサムな若者のままで永遠に生き続けている。
生きていてほしかったという強い想いです。
この2人と、愛犬フレッドのシルエットを描いた(ユペールが描いた)
挿し絵があるのですが、これが2人(3人か)の関係性をよく
表しています。ここまで開けっ広げな愛情表現なのに、嫌味をあまり
感じない。
同じことを別のセレブカップルがやったらただのパカップルにしか
見られなさそうなのに、なぜか筆者の気持ちに寄り添えてしまう。
ホワイト氏の文才に舌を巻いてしまう。そんな1冊です。
ナポリを歩く
きみのためのバラ 旅をする小説
昔(若い頃)ほどではないのですが、ちょっと人見知りするたちで、
特に初対面の相手というのが、どう話をしたらいいのかわからなくて
戸惑います。
社会人になり、アラフォーになってだいぶ改善されましたが…
よく考えたら、人見知りの激しいアラフォーって、かなり問題だよなあ。
イタい大人だよなあ…皆どうなんだろ。
予定していた飛行機に乗り損ねて足止めをくらった
主人公が、苦い気持ちで食事をとる店で出会った、
幸せそうにデザートを食べる美しい女性とほんの束の間の
交流を描く「都市生活」で始まる「きみのためのバラ」は、
国際規模の一期一会を丹念につづった短編集です。
池澤夏樹氏は、優れた小説家である一方、国際社会に鋭く
踏み込む旅人でもあります。
国内外のあらゆる場所に旅をし、暮らしてきた著者の描く
小説は独特の世界で、旅先での短く、忘れられない出会いを
丁寧に描いています。
国際結婚に破たんして、異国の別れた妻のもとで育つ娘との
つながりをどう保てばよいのか途方に暮れる男との邂逅、
表題となっている「きみのためのバラ」は、長い旅路の途中で
出会った美少女のためにたった1本のバラを贈る話ですが、
見知らぬ相手が、正体不明の相手が、必ずしも善人とは
限らない。
無条件に隣人を信じることがとてもリスキーなことになって
しまった現代では、人との繋がりや絆がとても脆い、はかないものに
なってしまっていることを、それとなく浮かび上がらせているのです。
著者の人を見る目は温かく、どこか冷めていて、
マニュアルでしか会話できない現代人の危うさを鋭く指摘する
一方で、垣間見せる一瞬の人間臭さを見逃さないのです。